【広島とともに歩んだ114年 〜芸陽堂の歴史〜】

芸陽堂は、広島市にて明治44年(1911年)に創業し、
114年にわたり、お菓子を通じて広島の暮らしに寄り添ってまいりました。

時代の移り変わり、戦争と復興、文化の継承――
芸陽堂の歩みは、広島の歴史そのものとともにあります。

芸陽堂のはじまりから現在までの歴史をたどります。


目次

1. 創業 〜ねぼけ堂から始まった物語〜

1911年(明治44年)、広島市塩屋町(現在の中区大手町)にて、村田安芸が「ねぼけ堂」を創業しました。
まだ広島の町が今ほど賑わいを見せる前、素朴な暮らしが広がる中で、
煎餅を中心としたお菓子屋として、その歴史を刻み始めました。

中腰で立っている村田安藝氏(広島市公文書館 保管)
塩屋町店舗 (広島市公文書館 保管)

大日本職業別明細図 大広島市(昭和14年)

2. 芸陽堂の誕生 〜広島の名を冠して〜

昭和13年(1938年)、日本を代表する評論家・歴史家である
徳富蘇峰(とくとみ そほう)氏が、当時の煎餅を食した際、
「広島の伝統を受け継ぐ名を」との言葉とともに、屋号を芸陽堂
と命名しました。

「芸陽」は、かつてこの広島の地を指した古い呼び名。
この地に根づく文化とともに歩むお菓子屋として、芸陽堂の名が刻まれた瞬間でした。

徳富蘇峰が書いた「芸陽堂」の書

3. 広島県産業奨励館での展示

戦前、広島で開催された第4回全国菓子飴大品評会(1934年開催)にて、
芸陽堂の頼山陽煎餅が出品・展示されました。

その会場は、現在の原爆ドーム(旧・広島県産業奨励館)

この記録は、広島の土産品として、また文化のひとつとして、芸陽堂のお菓子が広く知られていた証といえます。

第4回全国菓子飴大品評会(広島市公文書館 保管)

中央にあるのが芸陽堂の頼山陽煎餅(広島市公文書館 保管)
創業者・村田安芸氏(広島市公文書館 保管)

4. 廃業と再出発 〜戦後の復興とともに〜

1945年(昭和20年)4月、戦況悪化と物資不足により、一度廃業を余儀なくされます。
同年8月、原爆投下により塩屋町一帯も焼け野原となりました。

しかし、芸陽堂の火は消えませんでした。
1952年(昭和27年)、平室勝三氏が屋号と製法を引き継ぎ、広島市中区堺町にて芸陽堂を再開。

広島ゆかりの歴史家・頼山陽の名を冠した「頼山陽煎餅」が広まり、
広島土産としても定着し、広島の文化とともに歩む銘菓として知られるようになりました。

堺町で再開した芸陽堂
三代目・平室賢が煎餅を焼く様子

5. 数々の受賞と伝統の継承

頼山陽煎餅をはじめとする芸陽堂のお菓子は、長年にわたり高い評価をいただいてきました。

  • 1957年(昭和32年) 第14回全国菓子大博覧会 名誉大審査大賞
  • 1968年(昭和43年) 第17回全国菓子大博覧会 名誉大賞
  • 1977年(昭和52年) 第19回全国菓子大博覧会 全菓博大賞
  • 1998年(平成10年) 第23回全国菓子大博覧会 全菓博会長賞
  • 2010年(平成22年) 第50回全国推奨観光土産品審査 日本商工会議所会頭努力賞

広島の誇りを伝えるお菓子として、その評価を確かなものにしてきました。


6. そして現在、次の100年へ

2023年(令和5年)、店舗の立ち退きと高齢化を理由に、一度は廃業を決断。
しかし、芸陽堂の歴史と“おもかげ”を絶やすことなく受け継ぐため、
2024年(令和6年)8月、株式会社ナガ・ツキが、広島市中区吉島にて芸陽堂を再継承いたしました。

現在も、頼山陽煎餅をはじめとするお菓子に、広島の文化と114年の歴史を込めて、お届けしています。

現在の芸陽堂(吉島へ移転)

結び

芸陽堂の歩みは、広島の歴史とともにあります。
記憶と物語を、日々の中に届ける」ことを使命に、
次の100年に向けて、私たちは広島から“心ほどけるひととき”をお届けし続けます。

どうぞ、これからも変わらぬご愛顧をよろしくお願いいたします。

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